『ヨコハマ買い出し紀行』 のコミックカバーには、

作者である芦奈野ひとし先生からの、
短くも含蓄のある 「お言葉」 が記されています。


趣き深い、そんなお言葉の数々を、
まとめてみる事にしました。



日々に追われて、
心の潤いが枯渇してきたかな…?
と感じたとき、

1つ1つにジックリと目を通してみてください。



当たり前だからこそ見失いがちな何かが、
あなたの心にふたたび、
清水のごとく湧きいずることでしょう…








    1巻
 お祭りのようだった世の中が
 ゆっくりとおちついてきたあのころ。

 のちに夕凪の時代と呼ばれるてろてろの時間、ご案内。
 夜の前に、あったかいコンクリートにすわって。



この全文は、「最後」にもう一度登場しますね。

10年以上を経ているので、作者さんの中での解釈も
やや変わっている感じがあり、趣き深かかったです。




    2巻
 風景についてのおたよりに、
 「沖縄に似た所がある」という方や
 「北海道のイメージだ」という方がありました。

 この場所は、そこに行ってみると拍子ぬけするほどありふれた、
 そこら中にあるような所です。



そ、そうなんですか、芦奈野先生?




    3巻
 電柱が街の美観をそこねているそうです。世界的に。
 すすんだ街は地下に電線があるといいます。

 しかしめんどうなことに私達は「ないものねだり」。
 未来のすっきりさわやかな空に、
 物足りなさを感じなければいいんですが。



しばらく頭上がスカスカして落ち着かないでしょうが、
やがて慣れるのではないでしょうか?(笑)

電線のメンテが難しくなるなど、良い事ばかりではないでしょうが、
美しい風景に横線が何本か入ってしまっている光景は、
やはり、なにか圧迫感を感じるのです…

三浦半島の根本に「電線の無い住宅街」がありますが、
なかなか良い感じでした。
ちょっと、頭上がスカスカして落ち着きませんでしたが(笑)




    4巻
 路面電車は未来の乗り物だとか。
 なんでも「町のじゃまもの」ってことで
 取っぱらってみたら
 その分 車がふえて
 不便になっちゃったそうな。
 つまりは、そういうことなんでしょうね。



制限の無い自由空間は、結局、混沌でしかないのかもしれません…




    5巻
 昔、「あの時もっとしっかり見とくんだったな」
 と思ってた場所に
 10年ぶりに行って思うのは
 10年前のその日にこそ、
 よく見とけばよかったということです。
 今見なければ、きっと
 10年後もそうなんだろうなあ
 とも思います。



あらゆる風景は一期一会。
無常の2文字は、形が必ず失われる「当たり前」を僕らに突きつけます。

現実と、少しでも等身大に向き合うために、僕らは
「時代をよく表し 別に注目されず 2度と見られないもの」を
10年後と言わず、今こそしっかりと見ておきたいものです。




    6巻
 山の中で草をかきわけていて
 昔の海岸跡に出ることがあります。
 空撮の写真をながめていて
 海の中に川の跡を見ることがあります。
 海面にとっては、10mや20mの水位変化など
 ほんの寝返り程度のことなんでしょうね。



危ういバランスの中でかろうじて生きている自分たちを、再確認させられる光景です。

偶然に感謝すると同時に、「感謝の、さらに先」へ行く覚悟もジンワリと心の底に湧いてきます。




    7巻
 こどものころは
 となり町の小学校にさえ
 ものすごい文化的人種的ギャップを
 感じたもんですが
 以前 中国の旅から帰ってきた時
 成田からの町並も日本語も
 中国と同じものに感じて
 びっくりしたことがあります。
 年のこともあるとはいえ
 人の頭のそういう雑なフォローぐあいは
 なんか好きです。



経験し、自分の中に融合した者や物や場所は、「他」とは感じづらくなるものですね。




    8巻
 近頃ごぶさたのなつかしいにおいは
 考えてみると今は許されなさそうなものばかりです。
 2サイクルエンジンの白煙とか
 コールタールでやねもへいもまっ黒にぬった家。
 あとバスの床板の油とか…。
 それになんでもいっしょに燃やしていたたき火の煙。
 でも無臭の世界ってのも
 なんか体に悪そうです。



機械系の刺激臭… て、どうして我々男の心を鷲づかみにするのでしょうね?

駄菓子なども… 体に悪そうな刺激味(笑)なのに、ときどき無性に食べたくなる。

僕たち人間は、駄菓子が好きなのでしょうか?
それとも、駄菓子を食べることでよみがえる「思い出」こそが目的… なのかな?




    9巻
 においを記録するモノがほしいと
 思ったことはありませんか?
 「あの年あの日の夕方のにおい」とか
 「あの駅のにおい」「あの本のにおい」とか。

 音や映像のように保存・再生できたら。
 そのにおいと気分をだれかと共有できたら……

 いまのところ記憶という形で記録することだけができます

 再入力時のみ再生される記録ですけどね。



考えてみると、人間の五感のうち、
記録可能なのは「視覚」と「聴覚」の2つだけなのですね。

「嗅覚」の記録装置… すごく欲しいな。

2008年の春に亡くなったうちのメス猫の匂いが、すでに思い出せない。
彼女の寝ていた小さいカーペットを洗濯せずにそのままにしてあるけど、
わずかずつだが、香りが薄れていっているのを感じます。

それでも、カーペットに顔をうずめると、
スラリとやわらかく白い猫の姿が、ふと風景に重なって見えるのです…




    10巻
 雨の日、泥の上にできる水たまりの
 縁の形をぼけーと見てると、
 衛星写真の海や大河の岸に
 なんとなく似ているように
 見えてきます。
 「星レベル」の造型が
 足もとにあるので、
 目の高さが一瞬、
 衛星軌道上になります。



僕もたまに、そうして遊びます。

パソコンの前に座って、ふと見おろすと、整然と並んだ100近いビルの姿…
て、キーボードやん(笑)
でも、ヘリに乗って上空1000メートルほどを飛んでいるようにも錯覚したり。

目の前で僕を見つめる仔猫と、自分の視点を入れかえて、
「こいつバカデカ! つか、後ろ足でヒョロヒョロ立ってんじゃねーよキモ!!」
とか、自分に逆ギレしたり(笑)

そんな思考実験が、自分の幅を広げてくれるような気がちょっとするのです。




    11巻
 「昭和ブーム」ということで
 ”あの頃はよかった”が強調されてますが
 いずれ「平成ブーム」も必ず来ます。
 「平成の町」などが再現されます。
 ”平成ってあったかかったよなー”とか言う
 大人も続出します。



日々の努力を怠る者は、安易に過去を美化します。
過去の日々に心血を注いでいないので、細部が簡単にぼやけて、
良い事ばかりが思い返されるのでしょう。

ただ、それとは別に、誰にでも
「一番一生懸命だった時期が美しくよみがえる」ことはあります。
そこに「つらい事もモチロンあった…」という客観性が備われば、
それは決して安易な懐古主義に終わらないと思います。

ちなみに将来、「昔はあったかかった」と平成を懐かしむか…
「そんな時代もあったね」と苦難を乗り越えた先の時代の幸せをかみしめるか…

できれば後者でありたい…
そして、その時に振り返る「過去」は、他でもない「今日」であることも忘れずに
これからも歩いていきたいものです。




    12巻
 15年前、歩いて1時間かかるけど
 大好きな場所がありました。
 10年前、バイクで10分のそこは、
 わりとお気に入りの普通の道になりました。
 5年前、車で5分のそこは、
 ただの通過点になりました。
 久しぶりに歩いて
 行ってみようかと思います。



苦労を経て辿り着くから、真剣に味わおうとする。

いつでも行けると分かると、興味が希薄になる。

…人間の刺激に対する適応力も良し悪しですね(笑)




    13巻
 「出かけたら、行きと帰りは別の道を歩くこと」。

 昔なにかで読んだセリフですが、
 時々気にとめながら歩きます。



僕もそんな風に道を歩くことが多いです。
限られた人生、少しでも多くの場面が見たくて、
脳内に作った付近の地図のルートをできるだけ全て埋める感じで、
執着して歩いてしまう…(笑)

逆に、あえて、行きと帰りで同じルートを選択する場合があります。

「行きと帰りで、視点が180度変わっていること」、
「時刻・天候によって、まったく別の姿を見せる事もあること」

同じ道が、これほど印象が変わるのか! という驚きを
たびたび経験してきたので…(笑)




    14巻
 長いようで短いようで、
 やっぱり長かった
 一瞬の12年間です。
 この時間空間が、いつか
 みなさんと一緒の
 なつかしく思える時代に
 なりますように。



この時の記憶が『時代』でした

気がつくのは 後になってからです





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